卒業する愛しい人へ









氷帝学園テニス部の練習風景をみながら、

監督の榊は部員一人一人の動きをチェックする。

コートの中では部員同士の練習試合が行われていた。

跡部景吾と忍足侑士と隣のコートでは宍戸亮と芥川次郎の試合が大詰めを迎える。

激しい攻防の末、跡部と宍戸が勝利した。

榊は試合が終るのを見計らって、四人を呼び寄せた。

それぞれに悪い点とよい点を指摘する。

忙しい身でありながらも氷帝テニス部を影から支えていた。

「跡部」

不意に榊は跡部を呼んだ。

「明後日の他校との練習試合のオーダーだが、どうなっている?」

練習試合といっても気を抜かない。それが氷帝である。

榊からオーダーを決めるようにといわれていたが、まだ完全に決めてはいなかった。

「監督、申し訳ありません。そのことで少し相談したいのですが…」

「わかった。部活が終り次第、顧問室へくるように」

榊はそこまでいうと、各部員何人かの指摘を跡部に伝えると、用事のため後にした。




顧問室で榊は跡部がくるのを待っていた。

顧問室といっても榊流に模様替えされた室内である。

窓の外を見つめながら、榊は普段から想像できないような溜息を吐いた。

罪を犯してしまった。

いや、まだ罪を犯してはいない。

ただ、好意を持ってはいけない相手に好意を持ってしまった。

それだけだった。

そんな想いを抱いてしまったのだ。

そう…生徒に、それも同姓に…である。

してはいけないと思うほどしてみたいという未知なる世界への甘美な誘惑と

教え子に好意をもってしまった背徳感が榊の心を満たしていく。

その唇に触れてみたい。

教師という立場を利用して、抗えないように組み敷いてやりたい。

欲望が日に増して強くなる一方でそれを理性で抑え付ける毎日だった。

いっそのこと、この腕に抱かれることができるなら―。

そんなことを考えていると、ノックする音が室内に響いた。

「はいれ」

榊はこの想いを他人に知られないように頭を切り替えた。

「監督、失礼いたします」

約束をしていた跡部が室内に入ってくると、榊はソファに勧めた。

「部の方はどうだった?」

「はい、残っているのは自分だけです。明日の準備は自分と当番の鳳と向日です」

榊はそうか。と軽く返事をした。

部長の跡部はよくやっている。

決定権は顧問の榊にあるが、

部長として常にレギュラーを含む部員を把握しているのも事実であった。

「監督、明後日の練習試合のオーダーですが、見ていただけますか?」

跡部は本題に入るなり、紙を榊に見せた。

そこには悩んだと思われる部員の組み合わせが何通りも書かれていた。

「忍足と芥川のペア…か」

本来、いつもの正レギュラーで試合に臨もうとした矢先、向日が腕を負傷した。

学校の帰り道で階段から踏み外したおばあさんを助けた時に怪我をしたという。

それもあって、ダブルスのオーダーには悩んだ跡部だが、

監督のアドバイスも聞こうと相談を持ちかけた。

「このペアにした理由は?」

「ジローは熱くなると周りが見えなくなりますから、
冷静な忍足が適任だと思いました。樺地はシングルスでも問題ないでしょう」

榊はしばらく考え込んでいたが、これはこれで面白そうだ。といった。

「では跡部、オーダーはこれで預からせてもらおう。ご苦労だった」

跡部は失礼します。といって立ち上がった。

それを榊は呼び止めた。

「跡部」

跡部は立ち上がりながら、目の前の榊に視線を送る。

「いや、何でもない」

少しいつもと違う榊に跡部は困惑しながら、部屋を出て行った。

室内からは榊の溜息がこぼれていた。




自宅に帰宅した跡部は榊のことを考えていた。

いつもと同じ表情。

変わらぬ同じ声。

しかし、いつもとは違う。

それが何か、はっきりとしたものが分からない。

漠然と、<違う>何かを感じていた。

「珍しいな…」

普段から表情にでない榊に跡部はそう思いながらも、逆に気にかかっていた。

しかし、それをあえて聞くこともできなかった。





深い夜。

榊は仕事に身が入らない。

夜が深まるにつれて、身体が欲する。

欲望が駆け巡り、その身を熱く沸騰させる。

その沸騰した身体を榊は毎夜の日課のようにひとり静かに静めていく。

脳裏に浮かぶ、愛しい教え子の残像を糧に…。

「…跡部…」

榊はその愛しい名をつぶやく。

それだけで榊の身体は歓喜に震えた。

いつか、その身体を抱きたい…と…脳裏にささやく。

それを考えるだけで、全ての神経が快楽の中へと押し込まれる。

深い夜は、とまらない。

欲望が渦を巻いて、榊のすべてを飲み込んでいった。


翌日、跡部は授業が終った後、顧問室で明日の練習試合について榊と話し合っていた。

相手方がこちらにくるので、とくに何も準備はいらなかったが、

朝早く、相手側の都合で時間を短くしてほしいと謝罪の電話があった。

予定では全員が個々の試合を見れるように一試合づつとのことだったが、

それもあり、二試合同時に、進行状況によっては三試合同時ということになる。

向かいに座る跡部に榊は終始彼の顔ばかりに目にいってしまう。

一応跡部の話は耳には入ってはいるが、

榊はどうしようもできないところまで気持ちが膨らんでしまったことを嘆いた。

以前は跡部の顔を見ても、制服姿やどんな服を着ていても、抑えることができた。

しかし…今日は特にそれが出来ずにいた。

顔をみるだけで。

すれ違うだけで。

遠くで跡部の声が聞こえただけでも…身体が熱くなった。

「…督…?」

不意に跡部の顔が榊を見ている。不思議な顔で。

「監督…どうかしたのですか?」

跡部の声で榊はわれに返る。

「あ、あぁ…すまなかった。何でもない…」

そう言われても跡部の方はとっても気になってしまう。

「お疲れでしたら、自分はこれで部活に戻りますが…」

気を遣った跡部がそう返事を返す。

帰したくない。

そう思った。

「跡部」

気がつくと、榊は唇を重ねていた。

「っ!」

跡部は一瞬、意識が遠のく気がしたが、すぐに現実へと戻った。

榊を引き離し、その場から無言のまま、立ち去った。

榊は跡部の後ろ姿の残像を目に焼き付けながら、溜息をこぼした。




跡部は部活に戻ったが、どうしても榊とのキスを忘れることができなかたった。

監督がそんな風に自分を見ていたと思うと、何故か恥ずかしく感じた。

「…監督…」

どうしたらいいのか、気持ちに整理がつかないまま、跡部はつぶやいた。

「跡部、どうしたんや?」

そこへ忍足がやってきた。

「いや、なんでもない」

「ま、何でもないならいいんやけど、いつもとテニスが違う気がしてな…」

まったく、鋭い男だ。と関心しつつ、あんなことは誰にもいえないだろう。と思った。

「そうか、気のせいだろう。忍足、少しつき合え」

跡部はそういうと、忍足とともにコートに入っていった。



部活後、跡部は終ったことを榊に報告するために顧問室へと足を運ぶ。

足が重い。

『俺としたことが…監督とのキスだけで動揺するとは…』

跡部はそう思いながら、扉をノックする。

数秒後に榊の入れ。の返事が返ってきた。

「失礼します」

跡部の声に榊は振り向き、

「跡部、先ほどはすまなかったな。どうかしていた」

「…」

跡部は返事に詰まり、無言のまま聞いていた。

気まずい雰囲気が辺りをつつんだ。

「…跡部、私は教員であり、お前は教え子でもあり未成年だ。
私は一生、胸のうちに秘めておこうと思っていたのだが…」

榊はポツリと語りだした。

「…跡部、私はお前に好意を持っている。もちろん、恋愛対象としてだ。」

「…監…」

跡部の言葉を榊はさえぎり、言葉をつづけた。

「返事はいつでもいい。それで私も気持ちにケリをつけようと思う。本当にすまなかった…」

そこまでいうと榊は窓の方に顔を向けてしまった。

跡部は何も言えなくなり、用件を伝えるとそのまま部屋を出ることしかできなかった。

部屋を出る音が聞こえると、榊は窓の風景を見つめながら、つぶやいた。

「跡部…お前の未来のために私自身を引いた方がいいのだろう…」

道徳に反する行為。

たとえ片思いだろうが、世間に知られれば、格好の話題の餌食になる。

跡部景吾という天才的なテニスプレイヤーの存在が一瞬でなくなってしまう。

それだけは榊としては避けたかった。

頭では分かっていても、理性がついて行かなかった。


「監督…」

監督の痛い気持ちが伝わってくる。

それが自分の、跡部景吾という存在を守るためだということも分かっていた。

それゆえ、言葉を返す言葉がみつからなかった。

自分の気持ちはどうなのか。

いろいろと悩むことが多い。

跡部はすっかり薄暗くなった世界を一人歩いていった。




翌日、跡部はいつもよりも早く部室に来ていた。

眠れなかった。

榊のことを考えるだけで目が冴えて仕方がなかった。

一人コートで練習をしていると、忍足が遠くからやってきた。

「なんや、跡部もおったんか。早いな」

「珍しいな、お前がこんなに早く来るなんて」

お互い様やろ。忍足はそう返した。

「跡部、何かあったんか?」

「お前に心配されるとは、俺も落ちたもんだ…しかし、何もないぜ。それよりもお前こそ何かあったのか?」

跡部は冷静を装いながら、忍足に質問返した。

「ま、ぼちぼちな。何や相談されること多いし…」

忍足は軽く溜息を吐いたあと言葉を続けた。

「それに、ジローとダブルスやろ? 眠れなくてアカンかったわ…」

少し苦笑いを浮かべた忍足だった。



3-2で氷帝が勝った、練習試合無事に終わったが、跡部は無意識のうちに榊を極力避けるようになった。

部長なのでほぼ不可能だったが、会話が少なくなった。

跡部自身もまだ、答えがでなかった。

確かに尊敬はしている。跡部景吾を信頼してくれている。

どこかでその想いに応えてあげたいと思う。

それでも、結局は跡部自身の気持ちが分からなかった。

熱狂的なファンがいても、それに応えることなく、テニスだけやりつづけた。

頂点へ目指すために。

ライバルを倒すために。

今まで、こんなことはなかった。

恋愛で悩むことは…。

しかし、答えをださなければいけなかった。

その日、跡部は榊に会いにいった。

この顧問室に来るのはもう何度目になるのか、不意に思う。

別にどうでもいいことだが、部長になってから、当たり前のように足を運ぶ場所でもあった。

「監督」

跡部はそれ以上言葉がでなかった。

榊も窓の外を見つめてばかりで振り向こうともしなかった。

「…監督」

跡部はもう一度呼んでみた。

「…答えはでたのか?」

榊は静かに振り向き、そういった。

「…いいえ。ですが、卒業まで答えは待って頂けませんか?今は…テニスに集中したいのです…」

跡部は今の気持ちを伝えた。

「卒業…そうか。お前は留学希望だったな」

榊は思い出したように返事をした。

「…わかった。私の方こそ、無理を言ってすまなかったな。跡部…」

そして、それ以上会話がないまま、跡部は部屋をでた。


「跡部…私のいとし子よ…世界に羽ばたけ…」


榊は窓の外を見つめながら、つぶやいた。



榊と跡部は何もなかったようにいつも通りに振舞っていた。

周りの部員も二人の関係に気づいていないようだった。

それから、数日、数週間、数ヶ月が経った。

「なぁ跡部、留学すんやろ?寂しくなるな〜、でも戻ってくるんやろ?」

卒業式が終ったあとの部室で忍足が跡部に声をかけた。

「…まあな。少し席を外す…」

跡部はそういって、部室を出ようとした。

が、忍足が呼び止めた。

「ほんまに、それでええんか?」

「……」

跡部は何もいわずに外にでた。

残った忍足は溜息をついた。


顧問室に跡部はいた。もちろん、榊も相変わらず窓の外を見つめている。

「卒業おめでとう、跡部。向こうへいっても頂点を目指せ」

榊は振り向き、跡部にそういった。

「監督、今までお世話になりました。俺は今でも監督を尊敬しています。その気持ちは変わりません。
監督の気持ちも理解しているつもりです」

跡部はそこまでいうと、深呼吸をしてから、言葉をつづけた。

「監督…俺も監督が好きです。だから、今日は監督と過ごしたいです」

「――っ」

榊はその跡部の言葉に驚いた。跡部の口からそんな言葉が聞けるとは思ってもいなかった。

「…私と過ごすということは…わかっているのか?跡部…」

榊は跡部を愛していた。教え子として。一人の人間として。

その榊の気持ちを知った上での言葉は、榊にとってとても嬉しくもあった。

「分かっています。多分、もう会うことはないと思います。だから、忘れたくないのです。
跡部景吾が榊太郎を好きだという事実と、あなたのおかげでこの三年間楽しかったということを…」

跡部はまっすぐに榊を見つめていた。

榊には断る理由はなかった。彼自身が出した答えなのだから。

「跡部、ありがとう。それだけで十分だが、私と二人っきりで過ごすとなると、欲望を抑えることはできない」

榊は跡部のそばに近づくと、跡部の肩に手を置いた。

跡部はその榊の言葉に答えるかのように、自ら監督の唇に自分のそれを重ねた。

二人の静かな時間が流れた。




しばらくして、跡部は留学した。

榊はいつもどおりの顧問室で窓の外を見つめていた。

「跡部、世界に羽ばたけ…」

静かにつぶやき、顧問室を後にした。

氷帝学園中等部テニス部顧問、榊太郎。

今日もいつもと同じ毎日が始まる。



おわり